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生長の家では、神は善なるものであり、神の子である吾々人間も、善なる存在であると考えます。
そのため、善なる人間は誰もが、“善の尺度”というものを、本来は持っているのです。
この“善の尺度”があるがゆえに、自分や他人の行い、周りに起こる事件等が、善であるか、善でないかを分別することができるのです。
つまり、“善の尺度”があるということは、人間が、善なる神の分け御霊・神の子として、善なる存在であることの証と言えるのです。
ですから、人間に“善の尺度”があるということは、本来は素晴らしいことなのです。
しかし、その“善の尺度”の下側に、“我”というものが入り込むと、とたんに“おかしな”ことになってしまいます。
私の体験談で言えば、私は、「人間は挨拶をきちんとすべきである」という、“善の尺度”を持っていました。
そして、「そうあらねばならない」という、“我”の観点から、Aさんに、「朝、きちんと挨拶した方がいいよ!」という言葉を言ってしまったのです。
もちろん、当時の私は、Aさんに対して、そのように言うことは、「正しいことだ」と考えて言ったはずです。
こういう人間を、おそらく、“小善人”と言うのでしょう!
心の法則には、「認めたものが現れる」という意味があります。
私は、Aさんの「挨拶をしていない」という悪い状態を認め、指摘し、“改善”しようとしました。
そのため、「いらいらの“はけ口”にしないで!」という“暴言”を吐くという、「悪なる状態」 「悪なる面」を、Aさんから引き出してしまったのです。
つまり、「認めたものが現れた」と言えるのです。
世間一般の「悪いものを認め、それを改善する」という生き方は、心の法則から言って、必ずしもいい結果をもたらす訳ではないということです。
私はむしろ、例えば、Aさんが“早く出勤している”という良い面に目を向け、讃歎するとともに、私の方が“素晴らしい挨拶”を“手本”として示すなどして、人間・神の子の教えと心の法則を良い方向に使い、Aさんの「善なるもの」を引き出すようにすれば良かったのだと思います。
私は、Aさんとの“トラブル”を通して、そのことを学んだと思います。
やはり、吾々は、“真の善人”、“大善人”にならないといけません!
ただ、私が自分の言動を見つめ直して振り返ることができるのは、やはり信仰心があるからだと思います。
そうでなければ、Aさんとの出来事は、単なる“悪い思い出”としてしか、残っていなかったと思います。
改めて、吾々が信仰に触れ、真理を“心の柱”にして生活できるということは、有り難いことなんだと思います。
なお、私の「日時計主義」の生き方を実践した記事として、“日時計主義”の生き方の素晴らしさを実感!があります。是非、ご覧ください。
私は晴れて社会人の仲間入りをし、喜びを持って仕事をしていました。
私の職場に、同期の女性で、小柄でおとなしい人がいました。
その女性を、仮に「Aさん」とします。
私は、現在もそうですが、結構、早めに出勤する方です。
Aさんも、私の次ぐらいに、早く出勤する人でした。
ただ、Aさんは、いつも無言で出勤し、朝の挨拶を、全くしない人でした。
そんな日々が続いたある日、私は、同期ということもあり、「挨拶をしないままではいけないな・・・」と思い、次のように言ってみました。
「朝、きちんと挨拶した方がいいよ!」
後から考えれば、おそらく、こういう人を“小善人”と言うのでしょう!
私としては、「ごめん、ありがとう。これからは気を付けるわ!」といった台詞が、返ってくるものとばかり思って言ったのです。
そして、挨拶をする人間になると・・・。
ところが、Aさんからは、思わぬ言葉が返ってきました。
「いらいらの“はけ口”にしないで!」
本当にびっくりしました。全く想定外の、驚くべき台詞が返ってきたからです。
もちろん、私は怒り口調で言ったわけではなく、人に注意するということですから、慎重に、言葉を選びながら、言ったつもりです。
「いらいらの“はけ口”・・・」という言葉が、私の頭の中を、“衝撃波”のように走りました。
「・・・・・・・・・・・・」
それ以来、Aさんとは、数カ月間、お互いに口も聞かない状態になりました。
正直、この時の出来事は、私にとって、しばらくの間、一種の“トラウマ”として心に残っていました。
その後、生長の家の信仰を深めていく中で、「この時」のことをふと思い出しました。
「なんだ、そういうことだったのか!」
私はようやく、Aさんへの言葉がけが、生長の家の教えに照らし、実はまずい言い方だったということに気付いたのです。
なぜ、こういった生き方がいいのでしょうか?
日時計主義の生き方では、「悪を認め、それを改める」といった生き方をお奨めしません。
それはなぜでしょうか?
通常の考え方からすれば、親による子育てにしろ、学校の教育にしろ、会社での社員教育にしろ、マスコミの報道のあり方にしろ、社会制度を良くするための議論にしろ、多くの場合、個人や社会制度等の中に存在する、「悪い部分」「不完全な部分」「改めるべき部分」を明確にし、それを指摘し、改める(改めさせる)ことによって、良くしたり、完全に近づける努力をしたりします。
例えば、良い面が8割、悪い面が2割あったとすると、2割ある悪い面を良くし、良い面を10割にしようとするわけです。
もちろん、このようなやり方にも、意義があることは認めます。
しかし、「悪を認める生き方」というのは、実は、場合によっては、人間関係の摩擦を招いたり、他人を傷つけたりといった、“トラブル”を巻き起こすことがあります。
あるいは、マスコミの報道であれば、悪を強調し報道することにより、より一層、悪い事件等を引き起こしてしまうといったことが、現実にあります。
しかし、決して、誰に対しても、何に対しても、「事なかれ主義」であればいい、という訳ではありません。
なぜ、日時計主義の生き方が良いのか? 逆に、なぜ悪を指摘する生き方が良くないのか、次号にて、私の体験談を通して、考えてみたいと思います。
実際に、私が、大学卒業後に入社した会社であった、“実話”です。
なお、日時計主義の生き方の詳しい説明は、『生命の実相』第7巻、 『日時計主義とは何か?』、 『太陽はいつも輝いている』 等をご熟読ください。
東京都在住
千年以上続く、真言宗(高野山真言宗)の寺院(岡山県)の家系に生まれる。
真言宗の僧侶である祖父(権大僧正)と伯父(大僧正)を持つ(ともに大阿闍梨)。
昭和前期に、父方の祖母と母方の祖父が生長の家に触れる。
母より生長の家のみ教えを伝えられ、青少年練成会(小中高生向けの合宿形式のつどい)に参加する。
大学卒業後、民間会社に勤務の後、平成18年5月に宗教法人「生長の家」本部に奉職する。
平成22年3月、本部講師を拝命、現在に至る。
平成22年7月、生長の家教修会(生長の家の学会)で、「今日の自然観(心理学の視点から)」についての発表担当を務める。
<マイツイッター>(ブログ形式)
http://twilog.org/Shingon_Sni
<人生の7つの目標>
1.自分の使命と役割を全うする
2.人間の差別を克服する
3.人類の飢餓を克服する
4.宗教・宗派間の融和を実現する
5.自然と人間との大調和を実現する
6.世界の永久平和を実現する
7.地上極楽浄土を実現する