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このブログは生長の家の真理普及のために運営していますが、内容や発言はすべて私個人に責任があります。宗教法人「生長の家」の公式見解ではありませんので、予めご了承ください。 ご不明な点は、shingonsni@gmail.com までお問い合わせください。   (ブログ開設日:平成21年9月15日)
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今回は、前回の“彼女”とは別の「全力で頑張る彼女」のお話です。

オリンピックのモーグルの予選が、テレビ中継されていました。

前回、紹介した“彼女”が登場する前の時間帯でのことです。

地元・カナダ出身の「彼女」は順調に滑り始めました。

しかし、「エア」を飛んだ後、バランスを崩して、豪快に転倒し、前のめりに倒れ込んでしまったのです。

しかも、転倒する途中で、スキー板が外れてしまいました。、

「これまで何年にもわたり、必死に努力してきたのに、せっかくのオリンピックの舞台で、このような形で“終わって”しまい、さぞかし悔しいだろうな」と、私はその姿を、悲痛な思いで観ていました。

テレビ解説者が言うには、10秒以内に競技を「再開」しなければ、「失格」になってしまうとのこと。

「今さら競技に戻っても、完全にアウトじゃないか! しかも、スキー板が外れてしまっているわけだし!」と、私は思いました。

しかし、「彼女」は倒れたままの状態から、腕を使い、体を滑らせながら、急な斜面を昇っていこうとしたのです。

ルールのせいで、競技場の「雪上」で立ち上がってはいけないからでしょうか?

数メートル上のスキー板があるところまで、仰向けのまま、頭部を下側に向け、両腕を使って、必死に急な勾配を登ろうとする「彼女」。痛々しささえ伝わってきました

私は、息をのんで、画面を観ていました。

何とかスキー板があるところまで戻り、スキー板を急いで着用する「彼女」。

次第に、会場から、大きな歓声と拍手が聞こえてきました。

「彼女」が地元・カナダ出身ということもあると思いますが、おそらく、予選では一番、大きな歓声と拍手が起こった瞬間ではなかったかと思います。

「彼女」は、何とか競技を「再開」することができました。

観客からの声援と拍手が、ますます大きくなってきました。

「再開」後の「彼女」の滑りは、素人の私から見ても、見事なものでした。

「彼女」は最後まで、しっかりと滑り切りました。

テレビに映る、競技を終えた「彼女」の表情は呆然といった感じでしたが、会場からは、「優勝」が決まったかのような歓声と盛大な拍手が沸き起こってきました。

非常に感動的でした。

最終的に、「彼女」の結果がどうなったかは分かりません。

もしかすると、競技を「再開」した時点で「10秒」を超えていて、すでに「失格」だったのかも知れません。

「失格」は免れていても、おそらく「予選落ち」になってしまったと思います。

でも、「彼女」が競技を「再開」し、必死にプレーを続ける姿、そして観客が盛大な歓声と拍手を送るシーンを観ていて、本当に重要なものは何なのかを考えさせられました。

競技の「勝ち負け」や「メダルの有無」、「決勝進出云々」ということが全てではない、「その時その時に、自分ができることを、必死になって、いかに心を込めてやり切るかの方が、もっと大切だ!」ということを、教えていただいたように感じました。

観客も、諦めずにプレーを続け、しっかりと最後まで滑り切った「彼女」の姿に、“自然と”歓声と拍手が出てきたのだと思います。

生長の家創始者・谷口雅春先生は、『新版 希望を叶える365章』で、次のようにお説きくださっています。

「何事がやって来ても、心を動揺させてはならない。
結局、悪しきものは存在しないし、悪しきものは我らを襲い来ることはあり得ないからである。
私たちの人生の行路は必ずしも平坦ではない。
しかし、平坦でないから足が鍛えられて健脚となるのである。
困難と見えるものは自己に内在する“無限力”を一層多く汲み上げるところのポンプ作用である。
・・・<中略>・・・人生の経験に無駄はひとつもないのである。

困難に挑戦することによって、“内在の力”は一層多く発揮せられることになり、自分の魂の能力のうち、まだ完全にみがかれていない部分を琢磨して輝かすことになるのである」
 (同書146頁より)


「彼女」の年齢は、まだ17歳だとのこと。

今回の「経験」を糧に、一層飛躍した「彼女」が、次回のオリンピックで見られそうです。

拍手[6回]

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「オリンピックで全力で滑ることができて満足です。ちょっと悔しいけど」

「オリンピックでメダルは取れなかったけど、自分の持てる力を出し切れたと思います」

「いい滑りをしたというところを、みんなに見てもらえたと思う」


オリンピックのモーグルで競技を終えた、“彼女”の台詞です。

やはり一つのことに、本当に全力で、本気で、とことんまで取り組んできた“彼女”だからこそ、出てくる台詞です。

マスコミは、「またも悲願のメダルに届かず」 「4位に終わる」 「メダルまで一歩届かず」・・・何てコメントしています。

正直なところ、僕には「結果がどうこう・・・」という気持ちは、全く起こってきません。

そもそも、4大会連続でオリンピックに出場したり、ましてや順位を一つずつ上げながら、4大会連続で入賞を果たすことは、とてつもなく凄いことだと思います。

何よりも、「とことんまで全力を出し切った姿」が感動的でした。

競技が終わってからもしばらくは、“魂からの感動”で胸がいっぱいになりました。

生長の家創始者・谷口雅春先生は、『新版 希望を叶える365章』で、次のようにお説きくださっています。

「一着になるとか、何分何秒とかいう“秒読み”にも似た財産増加の速度などは大して重要な事柄ではないのである。
その目標に到達するための精神の練り方が問題であるのである。

神は或る目標を吾らの前に置いて、その魂の進歩の資料となし給うのである。
何事を為すにも「魂を練る」ための資料として為すことが大切である」
 (同書79頁より)

結果が“彼女”よりも良かった選手が3人いたから、「4位入賞」だったかもしれませんが、全てを出し切った“彼女”は、最高に輝いていました! 悔いがあるはずはありません!

“彼女”がバンクーバー・オリンピック直前に著した書籍、『やさしく、強く、そして正直に』(上村愛子著、2010年2月刊)の「エピローグ」の一部をご紹介します。

「わたしの今度のオリンピックでのすべりは、今まで自分に時間をつくってくれたすべての人たちへの恩返しとしてすべりたいと思います。

皆さんに、「ありがとう」が言えるすべりを必ずしたい。
常にコブに対してチャレンジ精神をもって向かっていきたい。
相変わらず誰かに勝ちたいとは思わないけれど、コースには絶対に負けたくない。
そこを皆さんに見てもらえたらいいなと思っています」
 (同書152頁)

本当に“最高の滑り”でした。

拍手[5回]

2006年3月に、第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、日本代表を初代王者(世界一)に導いた、王貞治監督。

シリーズ途中での敗戦に屈することなく、チームが一丸となって戦い、決勝戦で、強敵キューバを破って世界一に輝きました。

普段、野球を観ない私ですが、WBCは、第一ラウンド、第二ラウンド、決勝ラウンドと、手に汗を握りながら、テレビで日本代表を応援していました。

日本人の多くが勝利に歓声を上げ、敗戦に肩を落としていたことだと思います。

私は、年齢的に、王監督の選手時代をほとんど覚えていませんが、小学生の頃に、少年向けの雑誌に連載されていた『巨人の星』?(『巨人君』?)という漫画を読んでいたことがあり、王監督は非常に好きな選手(監督)でした。

そんな王監督ですが、数年前に胃ガンで入院されたことがありました。

王監督は、胃ガンの手術が成功し、無事退院されたときに、次のように話されていました。

「また、チームに戻って、優勝する喜び、負ける悔しさを味わいたい!」

一見すると、何でもない台詞ですが、非常に深い言葉だと感じました。

普通に考えると、「優勝する喜び」や「試合で勝つ喜び」を味わいたいということは、もちろん分かりますし、誰もがそう思います。

でも、王監督にとっては、「優勝する喜び」はもちろん、「負ける悔しさ」を味わうことも含めて、野球なんだということです。

愛する野球で、優勝しようが、試合に勝とうが負けようが、マスコミや観客に褒められようが貶されようが、「それが野球の楽しさだ!面白さだ!」 「味わい深いものなんだ!」 ということです。

王監督は、本当に心底、野球を愛していらっしゃるんだなと感じました。

王監督の台詞から、吾々自身が、人生や毎日の生活、仕事、学校、生長の家の信仰や活動、何らかの目標に取り組むこと等において、一見すると「喜び」と思えることや「悔しさ」と見えること、いずれにおいても、十分に「味わい楽しんで」いるだろうかと考えさせられました。

野球の日本代表に限りませんが、国を代表して試合等に出場される選手やチームの皆さんのことを、私は大変誇りに思うとともに、いつも大きな勇気をもらいます。

間もなく始まる「冬季オリンピック」でも、出場される選手の皆さんやチームが、今まで練習されてきた成果を、存分に発揮されることをお祈りいたします。

 

拍手[7回]

楽天イーグルスの野村克也・前監督の「野村語録」が一時期、非常に話題になりました。

野村監督が好きな言葉の一つが、「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すを上とす」だそうです。

最後の監督指揮となった日本ハム戦の終了後には、楽天と日本ハムの両チームの選手やコーチに、野村監督が胴上げされるという感動的なシーンがありました。

その時のインタビューで、野村監督は、次のようなことを話されていました。

「日本ハムにも稲葉や坪井とか一緒にやった連中がいて、お別れをしてくれた。
 感無量というか、胸が詰まった。
 縁だよ。縁を持った人がユニホームを着て頑張っているのは、喜ばしいこと。
 人間、何を残すか。人を残すのが一番。
 少しくらいは野球界に貢献できたかなと。そういう心境です」

名将・野村監督の手腕により、「再生」した選手や「プロ入り」を果たした選手は数知れず、「野村再生工場」と呼ばれていたことは有名な話です。

「不遇」を囲っていた人材が、野村監督のもとで、その才能を開花させ、「人財」となって羽ばたいていきました。

改めて、人を育てるのも、人をダメにするのも、周囲の人間の力が大きいのだと感じました。

それにしても、特に監督として、あれだけの「実績」を残されながら、このような謙虚な発言をされるあたりが、素晴らしいと思います。

人はとかく、物質的な豊かさや収入、地位、名誉、学歴、仕事や学校の成績等の「財」を求めがちですが、野村監督の言葉から、もっと大切なものは何かを考えさせられました。

さらに言えば、「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すを上とす」という言葉は、「人を残す」ことを、単に「財を残す」ことや「仕事を残す」ことと比較し、「人を残す」ことがより重要だと言っているわけではないと思います。

「財」(単に物質的な財産だけではなく、努力により蓄積してきたもの、精神的・魂的な面で磨いてきたものなど)の上に、「仕事」(社会や人の役に立つこと、人と人との協働作業、組織や団体などの人の集まりなど)があって初めて、「様々な人と人との縁」が積み重なり、「人財」が育ち、「人を残す」ことができるということが言いたいのではないかと、私は思いました。

人を育てる「場」や「機会」、人と人との「縁」というものが大切なんだと痛感します。

吾々が生長の家のみ教えに何らかの縁があって触れ、真理を日々研鑽できることは、自分が「人財となる」ことにつながるのだと思います。

さらに、生長の家のみ教えを友人や知人に伝えていけば、真理を知ることで、相手の神性が開顕することを通し、「人財を残す」こと(人材の発掘と育成)につながるのだと感じました。

このブログも、「人財を残す」ために、生長の家のみ教えとの「縁づくり」の一助となればと思います。

拍手[10回]

今から4年ほど前のことでした。

当時、滋賀県に住んでいた私は、近くの病院で健康診断を受けました。

最後に、医者との面談の時間がありましたが、心電図が良くなかったらしく、医者から次のように言われました。

「突然死の可能性があります」と。

その時の心電図から客観的に判断して、確かにそうなんでしょうが、非常に驚きました。

人生で初めて、「死(の可能性)」を宣告された私。

健康だけが取り柄だったのに。

私は「死の宣告」を受けて、2~3日は心臓のあたりがすごく気になってしまいました。

「心臓、動いているよな」

「今日は、何か鼓動が変かな」

「もしトイレや風呂場で突然死したら、発見されたときにかっこう悪いよな」

「車を運転中に突然死したら、もしかしたら誰かを巻き込むかもしれない。そうなったら、死んでも死にきれないな」

等々、いろいろと頭をよぎりました。

でも、しばらくして、考え直しました。

「突然死するということは、ほとんど苦しむことなく、突然、死ぬわけだから、本望じゃないか」

「気付いたら、肉体を脱しているわけだから、むしろ有り難いことじゃないか」

そう考え、達観した気持ちになると、すうーっと楽になりました。

お陰で、今でも元気に生きていますし、その後の健康診断では、3年連続で「A判定」をもらっています。

とりわけ、医者など、他人に影響力を持っている人は、言葉には本当に気をつけないといけないということを体感させられました。

もちろん、私自身も自分はもちろん、他人に対しての言葉には気をつけたいと感じました。

この出来事のお陰で、今となっては、この肉体を持った自分という存在に執着することなく、「私のこの世での使命が終わったときには、いつでもお召しになってください」という気持ちで生きられるようになりました。

「神様に全託して生きていきます」という気持ちになれました。

人生における体験で、本当に無駄なものはないということを実感しました。

拍手[0回]

コトバには、吾々の人生を創造する力があります。

いい意味でも、悪い意味でも。

この場合の「コトバ」とは、発生音(口から出す、通常の意味での言葉)だけではなく、思念(心の思い)、表情も含まれます。

あなたは、コトバの力をどちらの方向に使いますか?

もちろん、いい方向に使いたいですよね!

どのようにコトバを使うかは、結局、吾々の心が決めます。

「私は、完全で円満で、永遠の生命を持った神の子である。無限の力を持っている」と信じましょう。

「神様と同じ、愛と真と美と善・・・に満ちあふれた存在である」と信じましょう。

「私は、愛溢れる神様に常に守られている存在であり、大安心の心持ちで生きていていいんだ」と信じましょう。

「すべては、自分の成長にとって為になるようにできている」と信じましょう。

このように信じ、心の中で唱えましょう。

コトバが変わると、思考が変わります。

思考が変わると、行動が変わります。

行動が変わると、習慣が変わります。

習慣が変わると、未来が変わります。

未来が変わると、人生が変わります。

つまり、人生を変えるのは、「今」のあなた自身なのです。

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プロフィール
HN:
近藤 慎介 (こんどう のりゆき)
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性別:
男性
職業:
宗教法人「生長の家」本部職員
趣味:
自分を高めること、読書、サッカー、柔道、英語、認知科学など
自己紹介:
滋賀県出身

東京都在住

千年以上続く、真言宗(高野山真言宗)の寺院(岡山県)の家系に生まれる。

真言宗の僧侶である祖父(権大僧正)と伯父(大僧正)を持つ(ともに大阿闍梨)。

昭和前期に、父方の祖母と母方の祖父が生長の家に触れる。

母より生長の家のみ教えを伝えられ、青少年練成会(小中高生向けの合宿形式のつどい)に参加する。

大学卒業後、民間会社に勤務の後、平成18年5月に宗教法人「生長の家」本部に奉職する。

平成22年3月、本部講師を拝命、現在に至る。

平成22年7月、生長の家教修会(生長の家の学会)で、「今日の自然観(心理学の視点から)」についての発表担当を務める。


<マイツイッター>(ブログ形式)
http://twilog.org/Shingon_Sni



<人生の7つの目標>

1.自分の使命と役割を全うする

2.人間の差別を克服する

3.人類の飢餓を克服する

4.宗教・宗派間の融和を実現する
5.自然と人間との大調和を実現する

6.世界の永久平和を実現する

7.地上極楽浄土を実現する

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