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個人的な話ですが、私が生長の家の講師となって、初めて普及誌に掲載された文章ですので、あえてそのまま転載しました。
※普及誌『理想世界』
平成22年3月号まで青年世代を対象に発行されていた生長の家の雑誌で、現在の普及誌『日時計24』(12 歳~24 歳までの青年対象)に当たります。
他に『いのちの環』誌と『白鳩』誌の2誌があります。
リンク先より、ページの一部が「立ち読み」できます。
Q:
私は1月に郷里の企業へ転職し、現在、品質保証に関する仕事をさせてもらっています。
当初、これまでの技術と経験で、より良い製品を造り出そうと希望に燃えていました。
しかし、配属先の上司や部下たちからは、「前の会社と同じ考えはいらない」などと否定的な言葉ばかり。
その後、会社の独自規格を把握する時間もなく、仕事量・納期が厳しくなったり、担当の成果を出せず責任ばかり問われている状況です。
上司や人の陰口ばかり言う同僚の中で、今の状態を打開し、やり甲斐のある仕事をするにはどうしたらよいでしょうか。
(34歳、男性)
全体の生命に尽くす思いになったとき、
悦びとやり甲斐が感じられます
生まれ育った郷里へ帰り、前の会社で得た経験や技術を生かして転職先でも貢献したい。
そのようなお気持ちに大変感動しました。
また、転職してすぐに仕事を任されているのは、大いに期待されていることの証です。
さて、現在の職場の上司や同僚に不満を感じたり、仕事が思い通りに行かないと感じてやり甲斐を感じなくなったりする原因は、周囲や環境にあるように思ってしまいがちですが、実は自分自身にあるのです。
「環境は心の影」という法則があり、自分の周りに現れて見えることは、自分の心の反映なのです。
その現れを通して、自分の心の間違った傾向を教えてくれるのです。
上司や同僚の言葉を否定的にとらえたり、同僚が他人の陰口を言う面に目がいってしまうのは、周囲の人への否定的な感情から周りを見ているからなのです。
そのような心で仕事をしていると、職場で協調できず、仕事もうまく行かず、やり甲斐も感じられません。
生長の家創始者・谷口雅春先生は、『生命の實相』第36巻(全40巻、日本教文社刊)
「われわれがすらすらと生きるためにはどうしたらいいかと申しますと、『自分』というものを把まないということです。
我見で『こうしたい、ああしたい』という――そいつを把まないようにしてゆかなければなりません。
これが生長の家の生き方――無礙の大道であります。
自分がああしたい、こうしたいという注文というものがなくなってしまいましたならば、われわれはどこにでも生きる道を見出すことができるのであります」
(同書70~71ページ)
の中で次のようにお示しになっています。
我々はお互いに支え合って生きています。
仕事も同様で、職場の人間同士が協力し合って一つの“作品”を作り上げているのです。
自分ばかりを通そうとして周囲を生かそうとしない者は、かえって自分自身が生きなくなります。
これまでの経験や技術を持った「自分」という殻を一度捨て去り、上司や同僚たちと協力し合い、「全体」としての生命(仕事上のチームや部署等、業務遂行の単位)に調和して何事にも取り組んでみましょう。
そうした時、全体の生命との一体感で悦びが感じられ、仕事がやり甲斐のあるものとなってきます。
人間は皆、神の子で、無限の能力を持っています。
磨けば磨くほど、その無限力を発揮することができます。
転職して新天地に立っている現在のあなたは、これまでの「自分」という殻を破った時にはじめて、神の子の無限力を発揮して、仕事の面でも精神的な面でも一層向上し、生長することができるのです。
あなたならできます!
柔道部の練習を終え、次は音楽部の練習に参加する・・・という毎日でした。
中学生の時、私たち部員は「H川先生」に言われるままに、ただ一所懸命に合唱の練習をしていただけでしたので、「H川先生」の“素晴らしい側面”に、私は当時、全く気づいていませんでした。
元巨人の桑田真澄氏(選手)が、今春、早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科を、33人中の首席で卒業されるそうです。
桑田氏は、野球選手時代にも、選手としては最盛期を過ぎた年齢であるにもかかわらず、大リーグに移籍されるなど、“夢”を叶えた人でした。
私は「何歳になっても、とことんまでチャレンジする人だな!」と感心していました。
桑田選手が野球(選手)を引退し、大学院に進学されたときも、「まだまだ自己向上心を持って、次のことにチャレンジしていくなんて、ものすごい人だな!」と思っていました。
桑田選手は大学院在学中も、卒論が最優秀賞に輝いたり、学業成績もほとんどが「A+」であるなど、非常に優秀な成績だったそうです。
「さすが、一つの“道”で一流を極めた人は、他のどんなことにチャレンジしても、しっかりと“もの”にされるんだな!」と、私は感銘を受けました。
桑田氏は、私より少し年上なため、彼が高校生の時にPL学園でエースとして活躍されていたときから、名前を知ってはいました。
しかし、私にとっては、野球選手時代よりも、ここ最近の桑田選手からの方が、「人間」として、多くのことを学んでいるように感じます。
桑田氏は、大学院の卒業式では総代を務め、答辞を述べるとのこと。
きっと、今後、素晴らしい野球の指導者になられることでしょう!
今や死語かも知れませんが、まさに「文武両道」を極めた人です。
※この記事は、私のツイッターへの投稿(ツイート)をもとに(2つのツイート)、大幅に加筆して作成しました。
クリーニング屋では、いつも通りの手続きを経て、会計を済ませました。
最後に、店員さんから「仕上がりは月曜日になります」と言われました。
私は、心の中で、「えっ、今日は木曜日だよな? いつも、そんなに時間、かかったっけ!?」と思いました。
クリーニングを出す時間帯にもよりますが、通常は、昼前に出せば、翌日か翌々日の夕方には仕上がります。
別に急いでいるわけではありませんでしたし、私の性格上の問題もあり、特に店員さんに「何でそんなに時間がかかるの?・・・」などと、“確認”はしませんでした。
「月末か何かの関係とか、曜日の“巡り合わせ”の関係か何かで、今回はたまたま時間がかかるのかな?」とか、「クリーニング屋で、何かシステムが変わったのかな? “外部委託”になったとか・・・」などと、帰りがけに少し考えました。
ただ、「この時代に、クリーニングの仕上がりに、そんなに日数がかかって、店として大丈夫かな?」と、内心は思いました。
しかし、考えてみれば、私は、これまで、仕上がり日にクリーニングを取りに行っているわけではなく、店の営業時間(8:00~20:00)と私の通勤時刻の関係もあり、だいたい一週間から十日遅れで取りに行っていることに気づきました。
「私のように、なかなか受け取りに来ない客が“多い”から、あの店の店内は、“受け取り待ち中”のクリーニングで、いつも溢れているわけだし・・・。仕上がりが早い遅い何か、別にどうでもいいか・・・」と思いました。
そもそも、スーツを何着か持っているため、「その一着」が翌日か翌々日に返ってこなければ、着るものがなくて困るというわけでもありません。
また、クリーニングを受け取りに行った翌日に、「その一着」を早速着て、仕事に行っているわけでもありません。
スーツの“ローテーション”を少し変えれば良いだけです。
「はっ!」としました。
いつの間にかサービスに「速さ」を求めてしまっている自分に、気づいたのです。
さらに、その「速さ」を“当たり前”のことと思ってしまっている自分に・・・。
ただ、この「記事」を一通り書き終わって、クリーニングの「お預り票」を、念のために確認しました。
「・・・」
実は、「お預り票」には、「明日金曜日の18時以降の仕上がり」と印字されていたのです。
初めから、“いつも通り”の仕上がりだったのです。
私が店員さんの言葉を聞き間違えたのか、店員さんが外国出身の方だから言い間違えたのか・・・。
確かにサービス等に「速さ」が必要なときもあります。
しかし、吾々現代人は、とかく、日常生活の中で、たいして必要でもないのに、サービス等に「速さ」を過剰に求めてしまってはいないでしょうか?
いつの間にか、特段必要でもないのに、「速いこと」を“当たり前”のことと感じてしまっていることはないでしょうか?
そして、人生にも・・・、食事(食料)にも・・・。
今回のクリーニング屋での出来事を通して、色々と考えさせられました。
世の中は「美食ブーム」です。
テレビをつければ、「行列ができる美味しい店」を紹介する「グルメ番組」や「昼時の番組」が、必ずと言っていいぐらい放映されています。
「日本は本当に豊かな国だなあ!」と、いつも感じます。
もちろん、料理の味を追求される料理人さんや、真心の接客をされる店員さんの姿には頭が下がります。
ところで、皆さん、「美味しいものを食べる」ということと、「美味しくものを食べる」ということの違いは分かりますか?
たった一文字の違いですが、その意味するところは全く違うと思います。
「美味しいものを食べる」ということは、自分の外側に「美味しいもの」があって、それを「美味しい」と思って食べるということです。
「美味しいと評判の店」だったり、「値段」が高かったり、「珍味」だったりするために、おそらく誰もが「美味しい」と感じることでしょう!
一方、「美味しくものを食べる」ということは、食べるものが何かにかかわらず、目の前に今あるものの中に「美味しさ」を見出し、「美味しい」と思って食べる、自分の側が主体的に「美味しい」と感じるということです。
あるいは、愛する人と二人で、家族団欒で食べると、「幸せな瞬間」だから、「美味しい」と感じるという場合もあるでしょう。
つまり、「美味しい」も「美味しくない」も「何とも思わない」も、自分の心の中にあるということです。
「美味しい」といっても、外側の問題である場合と内側の問題である場合があるということです(もちろん、双方向的だと思いますが)。
「挨拶」という言葉は、本来、「相手に近づき、心を開く」という意味があります。
本来の意味通りの、素晴らしい挨拶ができていますか?
やはり、挨拶は、相手の目を見て、元気よく、「おはようございます!」といきたいところです。
そんな挨拶を見ると、こちらも元気になれます。
でも、なかには、例えばパソコンの方を向いたまま、相手に背を向け、(ぼそっと)「おはようございます」と、“形だけの”挨拶をする人がいます。
信仰とは、決して「聖典を読むこと」 「宗教行をすること」だけを指すわけではありません。
信仰とは、「自分が信じることを、生活の中で表現することだ」という言い方ができるのではないでしょうか?
信仰者にとって最も大切なことは、人間として「当たり前」のことがきちんとできることだと思います。
まずは、自分自身が、人間として、大人として、社会人として、「当たり前」のことがきちんとできているかどうかを、常に意識することを心がけてみてはいかがでしょうか?(もちろん僕自身も含めた話です)。
おおよそ一カ月ごとに、行きつけの理容院にずっと通っています。
「結構、いい値段がするのに、どうして、僕はこの理容院を気に入っているんだろうか?」と考えました。
確かに、髪を切る場所を変えることは、結構、勇気が要るからということもありますが、一番大きな理由は別のところにあります。
それは、その理容院で働く理容師さんたちがみな、非常に高いプロ意識を持って仕事をしているからだと思います。
世間で言う、「カリスマ理容師」と呼ばれている人がいるというわけではありません。
彼らが仕事をする姿を見ていつも感じることは、本当に基本に忠実に、非常に丁寧に仕事をしているということです。
あたかも「生卵」を扱うかのように柔らかいタッチで、客の顔や頭部に触れ、理髪作業をしています。
自分の仕事に誇りを持って、仕事をしていることを感じます。
とても楽しんで喜びを持って、仕事をしていることを感じます。
非常に真心を込めて、仕事をしていることを感じます。
まさに理容師“道”を追求しているのです。
そんな理容師さんたちの働く姿を見ていると、「僕も、自分の仕事に対して誇りとプロ意識を持ち、全力で仕事をしたい。一つの“道”をとことん追求していきたい」と、毎回、決意を新たにします。
生長の家創始者・谷口雅春先生は、『新版 希望を叶える365章』(50頁)で、次のようにお説きくださっています。
「仕事は表面は賃金のために働くような外観を呈しているが、仕事の最も重要な内在的意味は、人は仕事を通して人類に奉仕し、仕事を通して愛を実現し、仕事を通して自己の魂を発達向上せしめると云うことである。
仕事がなければ、吾々は人類に奉仕することができず、愛を実現することができず、自己の魂を向上せしめることができないのである。
仕事は自己の魂を向上進歩せしめるための教材である」
改めて、世の中というものは、人類に奉仕し、愛を実現し、自己の魂を発達向上せしめるために、個々の使命に邁進し、“いのち”を懸けている人たちで成り立っていることを痛感します。
「さすがはイチローだ」とか、「石川選手は若いのにすごいな」とかと思います。
インタビューなんかを聞いても、「さすがは一流の人は言うことが違うな」と感じます。
そう思うことはもちろん素晴らしいことですが、「彼らは特別な人だから・・・」という気持ちを、知らず知らずのうちに持ってしまうのではないでしょうか?!
もちろん、大リーガーやプロゴルファーとして同じ舞台に立ち、同じように世間から注目され、喝采を浴びることはできないでしょうし、そんなことが言いたいわけではありません。
彼らの活躍、直向きに頑張る姿を見て、「僕も、自分が与えられた場で、目の前の自分が生きている舞台で、やってやるぞ!全力で頑張って、その道の一流になるぞ!」と思わなくてはいけないのではないでしょうか?
この場合の「全力で頑張る」とか、「その道の一流になる」というのは、世間一般の成功者になるとか、金持ちになるとか、権力を手にするとか、一流大学を出て一流会社で働くとか、独立し起業してリッチマンになるという意味では、もちろんありません。
人間は神の子で、無限力があります。そして、各人が個性ある存在として、誰もが尊いのです。
誰もがこの世に生まれてきた目的と意味があり、各人に相応しい使命や役割があります。
それぞれの使命や役割は異なりますし、異なるからこそ、この社会は成り立っています。
つまり、自分の使命を通して、世のため、社会のため、何かのために貢献し、お役に立つということが、吾々の人生の目的であり、意味なのです。
誰もが各自の使命に邁進したときに、社会は素晴らしくなるんだと思います。
それでは、その各人の「使命」を、どうしたら見つけられるのか?
どうしたら、自分の「使命」が分かるのか?
たった一つしかないと思います。
神様に祈りながら、今、目の前にある、自分にできることを全力で、真心を込めて行うということです。
そこから、「道」が切り開かれていくと思います。
東京都在住
千年以上続く、真言宗(高野山真言宗)の寺院(岡山県)の家系に生まれる。
真言宗の僧侶である祖父(権大僧正)と伯父(大僧正)を持つ(ともに大阿闍梨)。
昭和前期に、父方の祖母と母方の祖父が生長の家に触れる。
母より生長の家のみ教えを伝えられ、青少年練成会(小中高生向けの合宿形式のつどい)に参加する。
大学卒業後、民間会社に勤務の後、平成18年5月に宗教法人「生長の家」本部に奉職する。
平成22年3月、本部講師を拝命、現在に至る。
平成22年7月、生長の家教修会(生長の家の学会)で、「今日の自然観(心理学の視点から)」についての発表担当を務める。
<マイツイッター>(ブログ形式)
http://twilog.org/Shingon_Sni
<人生の7つの目標>
1.自分の使命と役割を全うする
2.人間の差別を克服する
3.人類の飢餓を克服する
4.宗教・宗派間の融和を実現する
5.自然と人間との大調和を実現する
6.世界の永久平和を実現する
7.地上極楽浄土を実現する